2011年09月05日

㈱ホクガン創業者 上原武市氏迎えて(代表取締役相談役)

FMたまんの~ビタミンエフエム~沖縄元気塾!は、7月、8月と夏休み特集で週替りにゲストをお迎えしていましたが、番組構成を従来の「仕事を通じて人間力を磨き、社会に貢献するいい会社を創ろう」をテーマに9月より企業、個人を1ヶ月間4週にわたり放送するといったスタイルに戻りました。

その初めてのゲストに糸満に縁のある株式会社ホクガン創業者上原武市さんをお迎えしの1時間でした。
㈱ホクガン創業者 上原武市氏迎えて(代表取締役相談役)

<FMたまん3階にある事務所で打合せをする上原武市氏>

オープニングトーク:前回放送いたしました。第十一管区海上保安本部長賞受賞紙芝居「クマノミ学校のメリーさん」と授賞式のブログアップに多くの方々がアクセスしていただいたことに感謝を申し上げます。
26日ブログアップをして、9月2日現在で450PV、訪問325と一日のアクセスが30日~31日にピークを迎えて
172PV、132訪問と大きな反響があったことを報告致します。

沖縄の宝「食」を次代につなぐ

糸満の家を一軒一軒訪問して販売してきたことが今のホクガンの原点
高橋:お忙しいところ誠にありがとうございます。糸満に縁のある会社の経営トップのお話をお伺うのは、今回で2回目でもう少し糸満の企業とか、人なりをクローズアップしていこうという事で、その第一弾が㈱ホクガンの創業者であり、代表取締役相談役の上原武一さんをお迎えすることが出来ました。糸満には糸満工場や新幸地、アンマーフーズなどがあり、取材の為に工場見学等をさせていただいたのですが、上原さんと糸満との関係からお話を伺いたのですが。生い立ちとか・・・。
上原:生まれたところは喜界島で小学校6年生の時に糸満に移って来ました。
戦後間もない頃で毎朝3時に起きて近所のかまぼこ工場に出かけ、かまぼこを自転車の荷台に積んで、那覇をはじめ、中部の久場崎から泡瀬そして、コザ高校から美里まで行商をしていました。その当時、道路も今みたいに舗装されておらず、泡瀬からコザ高校の急な坂で自転車が倒れてけがをしたことを思い出します。膝や足などを擦りむいたりして、かまぼこは食料の乏しい時代にあって朝食がわりであり、そのかまぼこの味が今も忘れられません。

高橋:現在の糸満ロータリーの付近でマッチャグワをしていたという事ですが
上原:「新幸地売店」です。缶詰や米、そして、バガス(大豆の搾りかす)などを販売していました。バガスは当時どこの家も豚を飼っており豚の飼料としてよく売れました。糸満の家を一軒一軒訪ねて販売をしたのですが、今、㈱ホクガンがあるのは、その一軒一軒の糸満のお客様が買っていただいた事によってあるのです。本当にありがたいです。

15歳の時に丁稚奉公に出され、那覇に来ました。その後17歳の時に米卸業として独立。沖縄各地をまわりお米の卸をしていた時期もありました。その時は、自転車から三輪車のダイハツを購入してまわったわけです。その時に学んだことは、商売とは「信用」であるということです。お金と商品を交換して初めて商売になる訳ですが、信用取引といって、商品を先に渡し、お金は後で集金をするといったことなのですが、商品を渡してもお金を払ってもらえない事があり、このことから、「信用」というのが商売の原点といえるのではないかと。それは、今でも変わらない商売の原点だと思っています。

㈱ホクガン創業者 上原武市氏迎えて(代表取締役相談役)

はじめ緊張気味だったのですが、上原さんの好きな石原裕次郎の曲を放送してから「一杯ありたいですね。」と冗談を交えながら終始リラックスムードで放送が進行する。

北岸冷凍設立
高橋:1967年合資会社北岸冷凍を立ち上げるのですが、何故冷凍会社だったのですか。
上原:初めは倉庫業でもするつもりで那覇市泊に土地を購入して冷蔵庫を作ったのがきっかけでした。冷凍庫を借りていた企業が自社で冷凍庫を持つてしまい、その冷凍庫を活かすにはと考えたのが北岸冷凍の始まりです。食料が少なかった沖縄に本土から冷凍食糧を輸入しました。
高橋:どのようなものを主に輸入したのですか。
上原:サンマやサバ、イカなどの冷凍魚です。
高橋:通常はコンテナで輸入すると訳ですが、上原さんは三陸から船をチャーターして沖縄に運んでこられたこともあったとお聞きしましたが。
上原:当時は、ただ安く栄養価の高いサンマやサバ、イカだったのです。沢山売れましたね。今から思えば消費者ニーズに合っていたと言う事ですね。

地産地消を目的とした「アンマー印」の誕生
高橋:本土復帰を経て、日本全国から沖縄に食材が入ってくるし、外国からも沢山の食材が入ってくる時代になり、食糧の安定供給といったニーズから変化していく時代に入ったいくわけなのですが。
上原:そうですね。長寿県沖縄がその座を脅かされる事態になっていくわけです。まあ男性は酒の飲みすぎといったこともあるのですが(笑)食の欧米化が進ことによって長寿県が揺らいでいます。昔ながらの沖縄の食を見直さなければならないと思いました。このままでは、沖縄の家庭料理が失われていく。本土や外国から食糧を輸入するばかりではなく、沖縄県民が食べるものを自分で作れば漁業や農業そして、製造業も生まれ雇用も創れると思ったのです。今風にいえば地産地消です。社員にホクガンを代表するブランド名を募集しました。なかなかこれといったものが上がってこなくったのです。ヤンバルからの帰りに車を運転しながらふと思いついたのが「アンマー」という言葉だったのです。アンマーとは沖縄方言でお母さんということですね。シンプルでわかりやすく万国共通なお母さんのイメージです。「これだ!」とピンといました。
当時は携帯電話なんか無くって公衆電話に飛び込みキャラクター化するためにデザイナーに連絡をしてデザインをお願いしました。そして、出来たのがバーキー(カゴ)を頭に乗せてたアンマーのイラストが出来ました。㈱ホクガン創業者 上原武市氏迎えて(代表取締役相談役)糸満のアンマーは有名です。男は海に出て漁をする。その妻は夫が獲ってきた魚を買い取り売って歩く。アンマーは流通業の役目も担ってきたわけです。アンマーは強く、たくましく、そして、やさしくあたたかい。まさに僕の母そのものでした。アンマー印のブランドを作ると同時に生産工場も建て、仕入れ販売業から加工業へと事業が広がっています。石垣工場は「スヌイ」(もずく)を集めて、栃木県日光工場は大都市圏に「スヌイ」を供給する拠点として沖縄の「食」を提供する為に工場を作りました。

人に笑われる。誰もが思いつかない事がチャンスを生み出す
高橋:沖縄のお母さんである「アンマー」は沖縄の食文化のかなめですね。そして、もずくと本土では知られている訳ですが、沖縄方言にこだわり「スヌイ」という呼称にこだわる。

上原:アンマーも初めは皆に笑われました。上原は、糸満人だからだと、「スヌイ」も又笑われています。わざわざ本土で知られているモズクをわざわざ沖縄方言でと。人に笑われるぐらいが、誰も思いつかない訳ですから。僕は一つのチャンスだと思います。

高橋:本日はどうもありがとうございました。



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Posted by 高橋進 at 15:20│Comments(0)ビタミンFM
 
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