2020年01月20日

もう一つの首里城物語

首里城の焼け跡の下に、もう一つ沖縄を語る重要な施設が眠っている。今日はその眠っている施設を目覚めさせて語ってもらいたいと思います。

戦後74年も寝ているので、ちょっとやそっとでは起きてくれない。施設を目覚めさせる手助けをしてくれるのは元衆議院議員の古堅実吉" target="_blank">古堅実吉さんです。

まずは、現在の県立芸術大学と弁財天堂の間にある師範学校校門門柱についてお話しを聞きました。

もう一つの首里城物語

1944年(昭和19年)4月に沖縄師範学校予科に入学しました。つまり、この門柱は古堅さんの母校の門柱とい事になります。

入学した当時は師範学校から守礼の門にかけてうっそうとした森に覆われて道には湧水が流れ雨上りなど滑って歩けないほど水と森が豊かであったそうです。

入学して学校で授業を受けられたのは1学期だけで2学期から日本軍の陣地構築に全生徒が動員されその中には首里城直下の軍司令部壕堀などに連日動員されていました。

弁財天堂の解説板の下のところに今もその当時の赤レンガの当時の土台が残っていました。

もう一つの首里城物語
32軍司令部の解説板の前でうなだれているような古堅さん

そのような森が艦砲射撃で草木が一本残らず燃えてしまった。そこの風景が思い起こせないほど破壊尽くされてしまった。葉っぱ一枚も残らない破壊だったう
そう語った古堅さんはその頃を想起しこみ上げる感情を抑えきれないようだった。

ここまで読んでいただければ首里城直下の施設とは何かがお分かりだと思います。

古堅さんと歓会門を潜って瑞泉門の方へは登らず、久慶門を過ぎて銭蔵の横を登りながら古堅さんに僕は首里城再建の意見を聞きたくって歩きながら「現在首里城再建で多くの寄附がある。那覇市や沖縄県や民間などに寄附があるが、その使用目的は不明のままあの火災の映像と再建の機運に寄附が集まっている。しかし、140億円の再建費用の内70億円は保険で後の70億円は国が負担する事になっているが、沖縄の歴史を学ぶ為に首里城と共に、かつての沖縄戦の日本軍の司令部があったという事と戦争とはなんであったのか伝える為に復元の費用として使うといのはどうか」と質問した。

古堅さんは「寄付は首里城再建といった目的で集まっている。その寄付を壕修復に活用するには寄付をしていただいた多くの方に説明とお願いをしなければならない。その上で壕全体の修復で無くても、たとえ100メートルでも壕に入ってその当時を想起する事は壕の外で壕の入口が金網で塞がれて解説板読むだけの現在の今のあり方より、壕に入り体感すること。
司令部がどんなものだったのかが実感として伝わることが平和教育の場として。

首里城は、琉球・沖縄の歴史と文化の発信地として、

もう一つは壕の保存修復をする事によって平和教育の拠点となることを訴えて来た」と。

留魂壕に着く間、古堅さんと有意義な話ができました。

もう一つの首里城物語
留魂壕前で沖縄戦末期の師範学校の生徒がどうなったか語る古堅さん

留魂壕は師範学校の避難壕であった。その壕で多くの学友を失った。戦局はますます厳しいものとなり、百年の歴史を持つ緑豊かな古都・首里城付近一体は弾雨によって、地表は、堀起こされ、すべての地上物は壊滅するという言葉にできないほどの光景だった。

もう一つの首里城物語

軍命により師範隊は首里城を後に南下した。5月27日のことだった。豪雨の中で負傷した仲間を担ぎながら必死に歩き続けた。

翌々日晴れ渡り日差しの強い農道でモンペ服の婦人の屍に生後一年ほどの乳児が無心に母の乳を求めて這い回っている光景に出合った。余りのむごさに身も心も千切れるような思いで立ち止まったが、どうすることもできなくって隊列とともにそこを去った。

あの時の無念さは、いまに至る時どき思い出され、たまらない気持ちんになる。戦後あの時あの乳児を助ける事ができればと、悔やんでも悔やみきてない。

古堅さんは、時空を超えたあの乳児に出合った時間の中に迷いこんだような表情だった。

摩文仁に撤退したが、よいよ戦局が急をようしていく。6月19日師範学校の校長先生が解散を命じた。その際校長先生は「せめて一年生だけでも実家に帰す べきだった。軍命で摩文仁まできたが結局このようなことになってしまいました。生抜くんだと」

今まで言えなかった本当の気持ちを生徒に打ち明けた。

今回の企画は「沖縄を学ぼう」と首里平和委員会がされた。古堅さんの説明の一部始終を沖縄テレビが取材していた。女性のデレクターにニュース枠に編集して放送する事で終わるのではなく画像・音声を残して欲しいとお願いをした。

この体験は後世に役立つ貴重な証言だ。古堅さんは今年90歳になる。首里城直下のこの壕の体験や南部への移動などを体験し74年が過ぎた今日留魂壕の前で語ってくれた。沖縄戦の体験は一人ひとり皆違ったものです。100人いれば100人の異なった体験があります。と古堅さんは言った。

語っていただいてくれる人がだんだん少なくなっていく。

沖縄テレビとして記録保存と活用について若い女性のデレクターにお願いした。

彼女ははっきりした声で「ハイ!」と答えてくれた。

もう一つの首里城物語


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Posted by 高橋進 at 02:22│Comments(0)首里城
 
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